ドイツ到着の4ヶ月後、瀧は優秀な成績で入学試験に合格し、メンデルスゾーンが創設したドイツ初の音楽大学・ライプツィヒ音楽院に入学した。友人への手紙に彼は授業の様子や人物評などを書き送った。現在この手紙を読むと20世紀初頭のライプツィヒの音楽界や市民生活の様子を知ることができて興味深い。瀧はザーロモン・ヤーダスゾーン、ヘルマン・クレッチュマーらに師事し、勉学は順風満帆であるかのように見えたが、音楽鑑賞の帰りに引いた風邪によって事態は思わぬ方向へと進んでゆく。ヨーロッパでの初めての冬、瀧は風邪をこじらせ肺炎を起こし、12月にはライプツィヒ大学病院(所在地:
Johannisallee 34, 04103 Leipzig)に入院した。そしてその2ヶ月後に肺結核を発病したのだった。ライプツィヒに来て丸1年となる1902年6月には、担当医の勧めに従って看護婦に付き添われながら病院内の庭園を散策するなど回復するかに見えたが、結果的には小康を得たにすぎなかった。
7月10日、瀧に文部省から帰国命令が下る。ライプツィヒ到着後1年余り、音楽院へわずか2ヶ月通っただけで、彼は無念の帰国を余儀なくされたのだった。8月22日、もう風が冷たくなりはじめるライプツィヒを瀧は列車にて後にし、翌23日にベルギーの港町アントワープに到着した。当時の船旅は長く、彼を乗せた若狭丸が神戸港に帰り着いたのは10月15日のことだった。ここからさらに汽車で東京へと赴き、そして年末の12月20日、父親の故郷でもあり、両親の待つ大分に帰郷した。そしてその半年後の1903(明治36)年6月29日、彼は療養の甲斐も虚しく、23歳の若さで息を引き取ったのだった。
絶筆となったピアノ曲『憾(うらみ)』(=残念に思うこと)には志半ばにしてライプツィヒに倒れた瀧の無念さがありありと表現されており、その旋律が聴く者の胸に突き刺さる。